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大政奉還−王政復古。打倒徳川の実が結び、天下は明治革命へと流れていく……。


上野公園とその周辺 目でみる百年の歩み


昭和35年の大かんばつ

ついに うなぎも “あがったり”

昭和35年の大かんばつで、不忍池が干あがった時、北部公園緑地事務所では、大小何万匹にものぼる鯉をボート池から、水上動物園とハス池その他に移したが、うなぎだけは疎開?をきらい、最後までがんばったがついに雨は降らず、ちびっ子を喜ばした。



慶応から明治初年頃
明治への・・ ・・その前夜

大政奉還−王政復古。やがて新しい時代を迎えるのだが、その前夜の苦しみは、まさに生みの苦しみ。打倒徳川の実が結び、天下は明治革命へと流れていく……。


慶応三年十月十五日徳川幕府は大政奉還をしたにもかかわらず、三カ月後の慶応四年一月七日に薩長連合軍と鳥羽伏見で戦わねばならなかった。狆,討亟鰻魁敗ければ賊軍瓩里海箸伉未蝓負けた慶喜は朝廷に弓を引いた大敵だと、直ちに慶喜征討軍が編成された。征討大将軍が仁和寺宮純仁親王(のちの小松宮彰仁親王)とは何という歴史の皮肉であろうか。



慶応3年(1867)
10.15大政奉還
12.09王政復古


慶応4年(1868)
01.07徳川勢、鳥羽伏見の一戦に敗れる
02.12慶喜、寛永寺に謹慎
02.12一ツ橋家の家臣一七名雑司ケ谷鬼子母神境内に会し、「打倒薩長」を申し合わせた
02.23浅草本願寺へ慶喜の恩寵をうけた130名が集る。
この会を「尊王恭順有志会」と名づけ隊名を「彰義」とした
02.上野山内締切り、諸人立入禁止
03.13山岡鉄太郎、駿府に西郷吉之助を訪れる
03.14芝薩摩邸で勝西郷会談
04.14慶喜、水戸に幽居
04.上野山下の町民等、寛永寺門主の上洛を止める歎願書を提出
05.11上野広小路いとう呉服店の二階に官軍総督府の参謀部が設けられ、大村益次郎が主任参謀となる
05.15彰義隊、上野の山で奮戦、敗る
05.25輪王寺宮、海路水戸へ脱出、6月6日会津若松城に入る
07.10慶喜、静岡にちっ居
07.12奥羽北越諸藩が輪王寺宮を奉じて抗す。
王政復古を諸外国へ通告した国書

王政復古を諸外国へ通告した国書


歎願

上野の宮様に(輪王寺宮)は慶喜の助命と江戸市民の安全を頼むため上洛することになり、山野山下の町民はあぶないから止めてほしいと歎願した。


官板

官板 江城日誌第五号に官軍側から見た戦況が詳しくのっている(彰義隊の墓所提供)



彰義隊の戦

上野の山の戦いは一日で勝敗が決まった。彰義隊が負けたのである。大村益次郎ひきいる新政府軍2万余に対し、天野八郎ら旧一ツ橋家の家臣らは2千余。滅びゆく徳川に最後の忠誠を誓い少数ながら勇敢に戦った。

上野の山を下りた生き残りの隊士たちは五百余名。会津に五稜廓にたてこもりとことんまで新政府に抵抗を試みるが遂に二百五十四年にわたる徳川の天下は明治2年5月の戊辰戦争終結と共に幕を閉じたのである。


英斎画 春永本能寺合戦

英斎画 春永本能寺合戦(古宇田亮宣師蔵)


山内戦争の図

山内戦争の図(円通寺蔵)


勝安房の君 花野

勝安房の君       花野
当今形勢は実に叡虜に出るところか、はた天命か、止みなんなんとして止みかたき徳川家忠義の浪士、上野山中戦死のありさま、素より戦の意味なきに大軍四方を取り囲んで火中に必死を極めたる其の忠、其の義、詞尽きたり、伝へ聞くに都には此の頃楠正成がため叡虜を寄せさせ給ふとか、楠は南朝方なり、然るを北朝の御皇統にて末の世の今に至り さることの出来たるは、ただ其の忠によるものなるべし 上野の宮に討手を向けられしは 又尊氏を例とやいはん、定めし勅諚にもあるべきなれど、不思議の事と思ひ侍る、いかで此の忠臣どもに大和魂の動きなきを哀むべきや、君主はなしとも幸ひに君尽力して千変万化のおはすにあらずや、早く其の亡き骸を埋めて、せめては亡き霊を慰めまほし、尤も忠臣義士の死様世の人に示めさんに、なかなかに屍の面目、徳川家のほまれなり、一度は人心をして喜ばしめ、二度は人心して傷ましな、之をしも雨露に曝らし日に乾し長く泥土に置くものなれば其の恨みは天下にあらん 早く取り収めん事を公になさめし給へ 官軍も彼の楠を例とせば、いかでか之を悪しとや申さん、此の事疾く疾く申すなり、婦の長舌も時世にこそよれ、さりとも猶罪とせられば坐して死を待たんのみ 何とかすべき      あなかしこ




上方の ぜいろく共が やって来て 東京などと 江戸をなしけり
上からは 明治だなどと いうけれど 治明(おさまるめい)と 下からは読む (落首)

慶応4年(1868)
07.17江戸を東京と改める
07.下谷御徒町の辺り小身の武士・元御用達商人、商売始める。骨董屋多し
08.20市中の町名、橋名を木札にかいて町々の木戸、橋につけるよう達しがでる
09.02東京府の開庁
09.08明治に改元し、一世一元の制を定める
09.21下谷・一円の取締隊長に下谷御徒町上屋敷の柳川藩深屋某がなる。
11.08彰義隊副隊長天野八郎獄死


明治2年(1869)
02.14上野山内の参詣、花見など許可
02.19東京府に新しい朱印を定め、五十番組に分け、一区域一万人ぐらいにした。
03.28東京が首都となる
05.18榎本武揚等函館五稜廓にて敗る(戊辰戦争終る)
09.28慶喜の謹慎解かれる。


明治3年(1870)
05.寛永寺中堂跡を大学東校の用地とし、病院建設ときまる。
一世一元の制

明治に改元、一世一元の制を定めた。



病院か!!・・・・・・・・公園か!!

右の年表にもあるごとく、この焼野原が大学東校の病院建設用地に決まったのが、明治3年の5月。明治4年の秋にオランダの一等軍医ボードワン博士が、病院の建設用地を視察、「こんな幽邃(すい)な土地を潰して、学校や病院を建てることは途方もない謬見(びゅうけん)である」と即座に反対、オランダ公使を通じて、政府に「公園」の建設を建白した。ボードワン博士の卓見は見事に生かされ、明治の末期、上野公園を訪れたピェール・ロティはその印象を「日本のブローニュの森であり、またシャン・ゼリゼである上野」と賞めた。


寛永寺根本中堂跡

上野の戦争で焼野原となった寛永寺根本中堂跡




明治ご一新

大仏殿は、上野の戦争の時、辛じて焼失をまぬがれたが、その後ご一新の荒波が吹きまくり、旧物打破、わけても徳川のにおいのするものは手あたりしだい取りこわされ、大仏殿もご難にあった。


明治ご一新


明治4年(1871)
01.27大学所管の上野山内の遊観、以前のように許可


明治6年(1873)
02.04上野護国院に窮民一四〇人を浅草より移す
02.05東京府が初めて上野の山に養育院を設けた(のちに神田・板橋へ移転)
03.25旧上野寛永寺境内ほか四ヵ所が公園に制定された。
04.上野公園開設
04.大仏殿撤去
06.01上野広小路に麦湯・甘酒・水菓子を商う麦湯見世の百日間の営業を許可
09.17上野東照宮の祭礼に一般参詣許可、上野山内雑踏する。


ご難の大仏
大仏殿が取り払われ露座となり、やがて光背がとれ(下左)大地震で首が落ちた(下右)


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明治ご一新

明治9年5月9日 上野公園開園式にご臨幸の図(左端は三橋)


明治6年(1873)
08.02上野東照宮を府社に定める
08.13上野公園準備のため山内の一部を区画し文部省用地とする
09.16上野東照宮、一般の人の参詣始まる
12.09神田・日本橋大火に上野山内の養育院、三日間の焚出しで好評


明治7年(1874)
03.08上野新黒・下寺通・不浄門の通行禁止をとく
08.新橋より浅草まで二階建馬車開業、往来のケガ人多数のため禁止。
10.彰義隊士の墓碑(戦死之墓)建設を許可される、完成は翌8年5月15日


明治9年(1876)
01.10上野山内の一部を内務省博物館所属の公園地と定める。
02.14博物館建設のため山内の茶屋数十軒を取り払う
04.05上野公園内、立売・音曲等を取締る
04.14上野精養軒開店
04.清水観音堂取払いを命じられ、存続を嘆願
05.01不忍池をさらい、鯉二百石上り、再放流。内務省「鳥魚を取ること禁ず」の札立てる
05.09上野公園開園式挙行 天皇、皇后臨席
05.上野公園に八百善開業
05.不忍池一部埋立
06.28上野公園内、文部省用地を元涼泉院等の地所と交換。
07.大仏下の不忍池を見下す所に勝覧所できる。
07.不忍池を二分し、弁天祠脇から茅町へ新道を開く工事に着手。
11.17上野山下、元東叡山火除地の床店取払われる
12.上野公園清水谷に池を造り、水牛・河馬等の放し飼いの計画あり。(これがのちの動物園となる)
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明治初年の東照宮前鳥居(星野平次郎氏蔵)

文明開化の波にのって、カゴ(鳥居左端)は淋しく置き去られ、かわって人力車の時代となってゆく……


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広重画 戊辰の口碑(星野平次郎氏蔵)

立派な銅塔を苦心して作ったがまもなく借金のかたにとられたといわれる


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彰義隊戦死之墓

墓に行ってよくみると左側下二字に「松国」とあり、これは寒松院と護国院の各一字を残したもの。供養碑を建てるにも本名が使えなかった。

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