上野公園とその周辺 目でみる百年の歩み
運命の大正期
運命の大正期、大震災で上野公園大活躍
─上野公園の価値が改めて見直された時期─
子供が生まれ、育つためには、いろいろな病気や災害にであう。明治生まれの新生児日本は、大正期に近代病のさまざまな経験をする。例えば、第一次世界大戦への参加、大正デモクラシー、労働運動、それに史上まれにみる大震火災。震災を逃れた多くの人びとを救った上野公園が、公園のあり方を改めて見直された時期でもある。
まさに上野公園の大活躍は、災害の避難場所として最も重要な価値を市民に知らせてくれた。
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![]() 明治記念博覧会(星野平次郎氏蔵) |
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山と池を調和させ大正博
博覧会には毎回新技術が公開されるが、今回はロープウェーとエスカレーターが出現した。
上野の山と不忍池を見事に調和させた大正博であった。
(星野平次郎氏蔵)
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![]() 弁天堂前に天竜門落慶(大正3年)(田中幸太郎氏蔵) ![]() 江戸記念博覧会 ![]() 明治四十年の勧業博は三枚で十銭。この時は一枚で十銭となった。 |
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大正初期の不忍池畔は桜並木だった(喜多川周之氏蔵)
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![]() 化学工業博覧会場も台風には勝てなかった。(池野藤兵衛氏提供) ![]() 普選の大演説会(両大師前) |
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左)大正十年頃の上野広小路、中央は不動銀行。(池野藤兵衛氏提供)
右)大正十一年四月、来日された英国皇太子殿下の歓迎風景(大震火災で焼失する直前の松坂屋)
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![]() 大正中期の上野広小路を通る「1番の電車」ラッシュ!女も負けてはいない。(喜多川周之氏蔵) ![]() 大正中期、北大門、数寄屋町から不忍池を望む。手前は帝国博品館。(喜多川周之氏蔵) |
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平和記念東京博覧会
池畔全域を使った雄大なスケールで行われた。この写真は、開会間近で、弁天堂参道にはまだ木材がいっぱい見られる。特に人気を呼んだ朝鮮館(右上)と外国館(その左)。 (星野平次郎氏蔵)
今回の新技術は水上飛行機
摂政官殿下平和博行啓
関東大震火災 ─ 上野公園の活躍
のどかな上野公園入口も一転して避難者の群でいっぱい。この時の上野公園は多くの人の命を助けたばかりでなく、一夜に70人もの赤ちゃんを無事出産させ、まさに上野公園の大活躍であった。正面日活、帝国博品館、松坂屋は、二日目に焼けた。
日活、帝国博品館、松坂屋が一夜のうちにこつぜんと消えうせた。
(三枚とも喜多川周之氏蔵)
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![]() 九月十五日、摂政官殿下(今上天皇)は上野公園の災害状況をご巡視。供奉に福田戒厳司令官、永田東京市長、後藤新平、復興院総裁。 ![]() 家財道具を持って故郷へ ─ 上野駅へきてみればこの有様。この上野駅も二日目には鉄骨だけを残すこととなった。 ![]() 故郷への列車は日暮里駅から出るため、人々は線路を歩いて日暮里へ。 (三枚とも喜多川周之氏蔵) |
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左)湯島から西黒門町(現上野一丁目)方面をみたところ。
左端の鉄塔が松坂屋脇にあった宇津救命丸(右)とライオン歯磨の広告塔。
右)東京美術学校内で野天教室が開かれた。
左)帝国博品館の玄関。現上野二丁目一番六番辺。
右)さすが西郷ドンはビクともせず、人さがしに一役買っている。
上野公園から見た惨状、浅草十二階が爆破されたのが9月23日だから、この写真は9月2日から22日までの間に撮ったもの。
(喜多川周之氏蔵)
左)下谷町、仲御徒町四丁目付近(現上野六丁目)、中央に山城屋旅館の土蔵が残っている。蔵の手前にやがて高架線ができる。
右)西郷銅像付近から三橋五条町、上野町方面を見たもの。中央に五条天神社跡が見える。二年後の大正十四年には左上道の付近に高架線が建設される。
大正13年の上野駅前、左に上野駅、右端手前が高架線予定地、右上に下谷郵便局(現京成デパート)
上野駅も急ピッチで復興していった。
半世紀の逆転
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![]() 震災直後唯一の交通機関として活躍。品川─上野間五十銭 ![]() 大正13年1月には早くもここまで復興、皇太子御成婚奉祝パーティーを開く上野松坂屋。右側には「進め」の信号機をそのたびに巡査が動かしていた。 |
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